近しければ近しいほど、その関係性に悩まされるものです。
特に親子関係、それも思春期の親子関係ほどお互いにストレスになっていることは多くあります。
「よそ様のところで見せる半分くらいの愛想を我が家でもできないものなの?」
と苦々しく思う親御さんも多いことでしょう。
子どもとの向き合い方というテーマで、共に学んでまいりましょう。
幸いなことに現代の我々は先人たちが何を感じ、何を考えたかをテキストとして把握することが出来ます。
オリジナルの考えを持つことは大切ですが、長く受け継がれている理論を参考に物事を考えていくことで目の前の現象の解像度が上がることもあるでしょう。
もちろん理論がすべてではありませんが、実際に起こる「なぜこんな行動を?」というようなことを考える補助線として、何かのお役に立てれば幸いです。
そもそも、子どもという前に「人間」とは何か? というところから始めてみましょう。
その問いに先人たちはこんな答え方をしています。
・アリストテレス(ギリシアの哲学者:前384~前322)
人間は社会(ポリス)的動物である。
人間のみ理性(ロゴス)を持つ。
・パスカル(フランスの思想家:1623~62)
人間は考える葦である。
人間は偉大と悲惨の中間者である。
・リンネ(スウェーデンの博物学者:1707~78)
人間は知恵のあるもの(ホモ=サピエンス)である
・アダム=スミス(イギリスの経済学者:1723~90)
人間は経済人(ホモ=エコノミクス)である。
・マルクス(ドイツの哲学者・経済学者:1818~83)
人間は類的存在である。
人間の本質は労働にある。
・ベルクソン(フランスの哲学者:1859~1941)
人間は工作人(ホモ=ファーベル)である。
・ホイジンガ(オランダの歴史学者:1872~1945)
人間は遊戯人(ホモ=ルーデンス)である。
・カッシーラ(ドイツの哲学者:1874~1945)
人間は象徴(シンボル)を操る動物である。
・ホイジンガの「遊戯人(ホモ=ルーデンス)」
ここでいう遊びの特徴は4つ。
1、自由で自発的な行為のこと。
2、日常から区切られた非日常であること。
3、一定の目的を持たず、遊ぶという行為そのものが目的であること。
4、限られた空間、時間で行われること。
遊びは生産などの実用的な行為ではなく、純粋にその過程を楽しむのが目的である、とされています。
・パスカルの「中間者」
著書「パンセ」の中に出てくるパスカルの人間観です。
「中間者」というのは偉大と悲惨、無限と虚無、無限大と無限小の中間に位置するということです。
例えば宇宙の歴史を考えたとき、最先端の理論では宇宙は誕生から137億年経っているといわれています。
無限にも思える宇宙の時間軸から見れば、人間の一生は100年生きたとしても約0.2秒です。
まさに瞬き一つの人生で、無限の宇宙の前には限りなく虚無を感じます。
しかし、仮に今命尽きようとした瞬間、これまで積み上げてきた知識や思い出の多さ、近しい人や社会に与えた影響の大きさを感じざるを得ないでしょう。(30代前半で病気になったとき、死への恐怖というより「ここで終わるのもったいないな」と感じたことを覚えています。)
死という虚無を前にしたときに、一人の人間が何年か生きることの広大さ、尊さを感じます。
このような状態を「中間者」と表現しており、自分が惨めであることと、惨めなことを知っている点で偉大であることとの中間的存在に対して、絶えず不安を感じているということです。
私は、例に出したようにこの「中間者」という言葉を肯定的に捉えてはいるのですが。
・性善説と性悪説
孟子(前372頃~前289頃)は「人間の生まれたままの本性には、善の素質が備わっている」とする「性善説」を唱えました。
他人の不幸を見過ごせない同情心=仁
不正を恥に思う心=義
へりくだって他人に譲る心=礼
善悪を見分ける心=智
は誰にでも備わっているものであるから、これらを育てていけば立派な人間になれますよ、ということを語りました。
荀子(前298頃~前235頃)は「人の本性は悪である」とする「性悪説」を唱えました。
人間の欲望には果てがなく、人間は自足することが出来ないと考え、それを認め教育することにより人間を善に矯正していくのだと語りました。
・X理論とY理論
アメリカの経営心理学者マクレガーは「X理論」「Y理論」を唱えました、
「X理論」は、人間を自己中心的な存在とみなす「人間なまけもの論」、
「Y理論」は人間は本性的に責任感を持つ働き者であるとする「人間信頼論」です。
色々な考え方がありますね。


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