前回から民主主義の歴史を学んでいます。今回は古代ギリシアの後編です。
<3、独裁制から民主制へ>
さて、ソロンの改革により債務奴隷に落ちる平民はなくなりましたが、それでも貴族と平民の間では対立が続きました。その混乱を納める形で紀元前6世紀半ばにペイシストラトスが僭主(せんしゅ)政治を展開します。僭主とは独裁者のこと。ペイシストラトスはクーデターを起こし政権を奪取してしまうのです。しかし彼の治世は38年も続き「既存の官制を乱したり、法律を変改したりはせず、従来の国制に遵(したが)って国を治め、見事な政治をしたのであった。」(ヘロドトス『歴史』)ということで、強いリーダーシップを発揮したのでしょう。
ところが跡を継いだ息子のヒッピアスが暴君化し、アテネは大混乱に陥りました。
その状況を見て、紀元前508年にクレイステネスが「陶片追放(とうへんついほう)」を導入しました。僭主になりそうな人を市民が投票し、一定数に達すれば追放処分にされるという制度で、僭主の登場を阻止しました。
またクレイステネスは地域的な区を作り、成年男子の会議である民会などを取り入れ、平民の政治参加を加速させました。しかしそれでも無産市民たちには参政権はありません。そんな彼らが政治参加を果たすチャンスが訪れます。
紀元前500年から始まった「ペルシア戦争」です。
ミレトスという植民市を中心に、アケメネス朝ペルシアに対する反乱がおこります。この反乱にアテネは軍船を送るなどして支援しました。これに激怒した国王ダレイオス1世がギリシア遠征に乗り出したのです。
紀元前490年ギリシア本土を攻めたペルシアに対してアテネは反撃し、勝利を納めます。マラトンの戦いです。
その後ダレイオス1世の跡を継いだクセルクセス1世が遠征を始めます。
この時将軍テミストクレスの指揮のもと、アテネはサラミスの海戦に臨みます。この時に舟のこぎ手として活躍したのが無産市民の人たちでした。装備がなくても船は漕げる! ということで命がけで戦いました。
こうして無産市民たちも軍役義務を果たしたことで、彼らが参政権を獲得する契機となりました。まさに彼らは自分たちの手で参政権を「獲得した」のです。
<4、ペリクレスの政治と民主制>
サラミスの海戦の後、アテネ・スパルタ連合軍が陸上のプラタイアの戦いで大勝し、ギリシア海軍がミカレーの戦いで勝利し、ペルシアに勝利します。このあとギリシアはペルシアの攻撃に備えアテネを中心にデロス同盟という軍事同盟を組織します。しかしその後大きな衝突はなく、紀元前449年に「カリアスの和約」が結ばれペルシア戦争は終了します。
ペルシア戦争終了後にアテネにペリクレスが登場し、アテネは黄金期を迎えます。有名なパルテノン神殿が作られたのもこの時期です。
立法・行政・司法上の最高意思決定機関とされたのが「民会」で、自由民の成年男性すべてが集まる会議でした。彼らは18歳以上なら貧富の差にかかわらず平等な参政権が与えられていました。
さらに公職は抽選(くじ引き)で行われました。公職に就けば手当てがもらえます。しかし再選は禁止です。特定の人間が特定の役職に長くいると「利権」が生じ、腐敗が起こると考えられていたからです。このあたりのバランス感覚はさすがですね。
もっとも軍の最高責任者である「将軍」は選挙で選ばれ、再選も可能でした。将軍が頼りなかったら国の一大事ですからね。
<5、古代ギリシアと現代の民主制の共通点と相違点>
すでに2500年前には民主政治が行われていたのが驚きですね。
では、現代の政治と比べて共通点と相違点を見ていきましょう。
〇共通点
政治参加は市民の義務とされ、「政治的無関心」は非難の対象でした。現代でも、投票や政治参加は民主主義の根幹とされます。
討論の重視:演説や弁論によって説得する文化が根付いており、これは現在の議会制度にも引き継がれています。
〇相違点
アテネでは全市民が法案に直接投票したのに対し、現代では選ばれた代表(議員)が政治を行います。
また女性、奴隷、外国人には市民権がなく、人口の大半が政治参加から除外されていました。これは現代の参政権とは大きく異なります。
<6、その後のギリシア>
さて、その後紀元前431年にギリシアのポリス同士の戦いが始まります。「ペロポネソス戦争」です。
ペルシア戦争で勝利に貢献したアテネですが、デロス同盟の資金を横領してパルテノン神殿を建てたり、他のポリスの内政に干渉したりしました。これにスパルタを中心としたペロポネソス同盟が反発したのがきっかけです。紀元前404年、アテネとアテネに率いられたデロス同盟は敗北します。
その後ギリシアの中心となったスパルタですがペルシアが支配する小アジアに進出しようとしました。これにペルシアが怒り、ペルシアはギリシアの反スパルタ勢力を焚きつけて戦争を起こさせます。この戦いで新興ポリスであった「テーベ」が覇権を握ります。
しかし紀元前338年、北方のマケドニアによってギリシアは征服されてしまいます。
<7、戦乱がもたらしたもの>
この戦乱のさなか、農地の荒廃や貨幣経済の浸透、感染症の流行などで多くの市民が没落し無産市民と化しました。
そうなると武器を変えませんので重装歩兵部隊は解体されます。ではポリスの防衛はどうするのか、というとお金を払って兵隊を雇う、いわゆる「傭兵」が誕生することになります。ここに武器自弁、市民皆兵の原則は崩壊します。
没落した市民たちは生きるのに精いっぱいになります。政治の行く末について考えるゆとりはありません。その結果、野心をもった口のうまい連中の威勢のいいことや耳触りのいいことに迎合してしまうことが起こります。これを衆愚政治といいます。衆愚政治の時代に登場した扇動者を「デマゴーゴス」と呼びます。彼らは自分たちの貧しさを外の国のせいだと煽り、戦争の継続を訴えます。
このあたりは現代の民主主義にも、かつてのアテネと同じような課題に直面しているように感じます。
奴隷制・土地所有の偏りといった格差の拡大は現代における経済格差に、デマゴーゴスに代表されるポピュリズム、民会の形骸化といった制度疲労は現代における投票率の低下や政治不信につながります。
もっとも現代には「普遍的参政権」「人権保障」「国際的な協調」という、古代にはなかった制度的土台があります。それでも、「民主主義は与えられたものではなく、勝ち取ってきたもの」そして「守り、育てるもの」という教訓を、古代ギリシアから学ぶことは大切かもしれません。
次回は7月20日更新予定です。


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