以前、外資のマーケティング会社で働いていたころ。
本社(アメリカ)から頻繁に外国人が訪れ、英語が飛び交うオフィスを眺めながら「グローバル化」を肌で感じていました。
上司が外国人とコミュニケーションを取るときに気にしていたのは「日本(自国)のことをどれだけ話せるか」ということ。
「ただ単に英語ができるだけではダメ、自分のことや自分の国のことを話せない人は尊敬されない」
ということを何度もおっしゃっておりました。
また日本では知識としてしか学ばない哲学や思想なども頻繁に話題に出され、世の中の事象や人生に対して話す機会を持たせていただきました。
「インターネットの普及はまるでヘーゲルの弁証法の「事物の螺旋的発展」のそれを証明しているようじゃないか」
「フランクルの「夜と霧」にも書いてあったが、アウシュビッツのような絶望的な環境でもユーモアを持つことが、人間にはできるんだね」
「結局のところ聖書を根拠としている我々(アメリカ人)にとって労働は罰であるが、日本の天照大神は機織りをしてたというから、日本では神自らが労働していることになる。ここに二国のリーダー観の違いがあるんじゃないか?」
下手に文系大学のゼミに通うより、知識や教養のインプットとアウトプットを行う毎日だったように思います。
グローバル化=英語、という意識はあると思いますが、自分の国の歴史や文化を習得すること、またそのための読書、それに伴う漢字や語彙力など、まずは日本語の勉強をすることも、グローバル化への道なのかもしれません。
以前「文学部は役に立たない」というような論調が流行りましたが、そうとも言い切れないのかなと感じています。
確かにAIやIOTなどの技術を作る理系は大切。
Chat GPTが示すように、世の中はどんどん便利になっていくでしょう。
しかしAIの利用方法は現状はあくまでも「アイデア出し」であり、人間に問われるのはそのアイデアをどう取捨選択するかの「編集」のスキルです。
そのためには、自分自身の頭の中にそれなりの知識や論理的思考がなければ、何が正しい情報で何が間違っているかを判断できず、滅茶苦茶な結論になってしまいます。
私もいくつかの文学作品のあらすじをChat GPTにたずねてみましたが、中にはまったく内容が異なるものもありました。
夏目漱石の「それから」が何故か陰陽師の名を冠した主人公が活躍する冒険探偵小説になっていたり、森鴎外の「高瀬舟」が恋愛小説になっていたり、「走れメロス」ではメロスが友人の身代わりになっていたり・・・。
知識がないままChat GPTが示すあらすじを信じる恐ろしさを実感した出来事でした。
結論として、何事も学んだことに無駄なことはない、ということではないでしょうか。
学んだことの活かし方次第で、その学びが有益にも無益にもなるものではないでしょうか。
将来何がどうつながるか分からない以上、好き嫌いせずにいろいろなことを勉強しておきましょう!


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