【教養としての宗教学①】聖書と古事記で人事と会話した件

教養としての宗教学

グローバル化が重要視され、英語教育が見直されています。

コミュニケーションツールとしての英語は大いに学ぶべきだと思いますが、諸外国の方とのコミュニケーションを図るためには、その国の文化や考え方を知っておく必要があります。

また同じように自国の文化や歴史を知っておく必要もあります。

日本人が諸外国を理解する上で特に難点となるのは宗教ではないでしょうか。

特定の宗教を信じている人が多いわけではなく、宗教へのこだわりもない日本人。

よく出される例ですが、初詣は神社へ行き(神道)、結婚式は教会で挙げ(キリスト教)、亡くなるとお葬式(仏教)というミックスぶりは外国の方には理解できないと言われています。

逆に言えば、宗教に関してこだわりなく、寛容で、理知的である、という主張をされる方もいらっしゃいますが、それも少し違うような気がします。

世界約70億の人口の中で、ユダヤ教、キリスト教、イスラムの信者は約40億人と言われています。

つまり約6割の方がその世界感で生きているということです。

相手の持っている世界観を理解したコミュニケーションを図ることができれば、お互い歩み寄ることができるかもしれません。

 

例えば私は以前外資系の会社にいたことがあるのですが、そこで人事の方とアメリカ本国の方との話し合いに立ち会ったことがありました。

その中で、聖書の世界観で生きている本社の方と日本人の労働観の違いのような話になりました。

聖書の世界観では、神との約束を破ったアダムは「罰として」労働を与えられます。対して日本の古事記では神々自身が労働を率先して行っています。

「働く」とは「傍」を「楽」にするとも読み替えられ、自分のできることで傍=周りを「楽」しませたり「楽」にしたりすることが労働という概念が日本人にはあるのかもしれない、だとしたら金銭の対価だけでなく、自分の仕事が周りのスタッフやお客様にどのように役立ったのかを視覚化できるようなものがあれば日本の従業員のモチベーションも上がるのではないか、という話をしていたのが印象的でした。

これは極端な例で、神が与えた労働(=labor)の解釈を吟味する必要はあるかもしれませんが、面白い視点ではありますよね。

 

そこで、世界を理解する一環として有名な宗教の概要を押さえていこうと思います。

まずは中東で生まれたユダヤ教キリスト教イスラム、そして日本人に何となくなじみのある仏教についてご一緒に勉強してまいりましょう。

 

なお、本記事は特定の宗教、宗派を布教するものではありません。

あくまでも知識として宗教を学ぶというところにとどめておきます。

念のため執筆者である私の現在の宗教的立場をお伝えしておきます。

私は現在、特定の宗教、宗派の団体には加入していません。

あくまでも趣味として宗教を勉強し、一講師として、なるべく平等に、公平に宗教を語っていきたいと思います。

ただし、どの宗教団体にも属してはいませんが、「神」の(ような)存在は信じています。

「創造主」というようなもの、人間の英知をさらに超えた高次元の存在、というものは認めています。

 

それは私の労働観からくるものかもしれません。

私は本業で組織のリーダー的な存在を務めています。

「リーダー」=「導く人」

しかし、それ以前に、自分自身が何か大いなるものに「導かれている」という感覚を常に持つようにしています。

私を含め人間にはエゴがあります。

「これだけのスタッフをまとめている」

「これだけ多くのお客様を抱えている」

ちょっと油断をすると、驕りや高ぶりが出てくるのが人間です。

これは本当に気をつけなくてはいけないことです。

優越感を持つためにリーダーの地位にあるわけではない。

私自身の力などたかが知れている。

それでも私のマネジメントを通して、気付きを得てくれる人がいる。

だから、私を通して成長してくれる人がいる以上、大いなる存在が、私にここにいろと言っている

そのように考えなければ、すぐに調子に乗ったり、不正をしたりする弱さが私にあると思っているのです。

人間の欲やエゴはどこまでも続いていく。

それを抑えることができるのは、自分自身は何かに「導かれて」存在しているのだという、人間を超えた存在への畏敬の念を持つよりほかにないと思っています。

そういった心のよりどころ、自分を律する存在として「神」「大いなるもの」を意識するようにしています。

 

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【教養としての宗教学1】講師である私の宗教的立場

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