【教養としての宗教学④】ユダヤ教の確立とイエスの登場

教養としての宗教学

バビロン捕囚の反省から、厳格にタナハ(旧約聖書)を守ろうという流れになりました。そこで、タナハの教えを解釈する律法学者や、ユダヤ教の教師である「ラビ」が誕生します。

タナハの解釈をミシュナーといいます。さらにその律法学者や伝道師たちがタナハに書かれた律法やミシュナーをより生活に密着した形で伝えたものをゲマラーといいます。

現在では口伝はなく、文書化されています。そして5世紀くらいに口伝律法の総称としてタルムードが誕生しました。

ユダヤ人たちは二度と神との契約を破らないように、タナハの解釈を厳格に行いましたが、タナハの解釈に過ぎなかったこのミシュナーやゲマラーが、タナハと同じかそれ以上の権威を持って受け入れられるようになりました。

いつのまにか律法学者の権威も上がって行きます。そして聖書の解釈もどんどん厳格化し、ゆがんだものになっていきます。

例えば安息日というものがあります。

1週間に1回、労働をしてはならない日です。破れば死刑、ということがタナハには書かれていますが、では「仕事」の定義とは何か、ということになります。

安息日でもご飯を食べますが、料理をするのは仕事ではないのか?

安息日に敵が攻めてきたら軍隊は戦えないのか?

医者は急病人の手当をしてはいけないのか?

人々に心の平安を与えるための律法が、その解釈によって逆に人びとの生活を窮屈にさせるものに変化していきました。そして律法を司る律法学者が絶対的な権力を持つようになっていきました。

律法を守れる裕福な人はいいのですが、例えば安息日にも働かなくては生きていけない貧しい人たちは救われないのかという話になります。

救われる者と救われない者の二極化が生まれてしまいました。

それに対して、「こんなものは禍である! 律法学者は偽善者である!」 と糾弾したのがイエスです。イエスは実際に安息日に労働をしたり病人を癒したりして、律法学者に批判されるのですが、このように言い返します。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコによる福音書2章27節)

表面的に律法を守ろうとする学者たちと論争を繰り広げました。当然律法学者たちはいい気持ちはしません。結局神を冒涜したということでイエスは十字架にかけられてしまいます。

ではイエスは何を主張したのでしょうか。それを次回見てまいりましょう。

 

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【教養としての宗教学7】ユダヤ教の確立とイエスの登場

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