前回は仏教に対する日本人のとらえ方を確認しました。
参考にしたのは岡野守也氏の説です。
1、呪術の要素
2、神話の要素
3、合理的・哲学的要素
4、覚りと論理の方法
このうち日本人になじみの深い極楽と地獄、生まれ変わり、お盆といった呪術的・神話的要素と、合理的な側面があることをお伝えしました。特に呪術的要素、神話的要素の話を日本の歴史と絡めてお伝えしました。
管理人しつちよは仏教=論理的で哲学的な「処世術」として日々の心のもやもやを解決する手段として使ってはどうかと考えています。
そこで、我々日本人があまり意識しない仏教の「合理的・哲学的要素」についてみていきましょう。これこそが、釈迦が悟ったことではないかと思いますので、釈迦がどのような真理を得たかのかを考察していきましょう。
〇釈迦が悟ったこと
王子として生まれ何一つ不自由のない生活をしながら、それでも心の安らぎを得ることができなかった釈迦は、どのようにすれば「心の平安」を得ることができるのかを考えます。長い苦行の末にたどり着いた答え(悟り)は以下のようなことでした。
「この世の真理を知らないから苦しいのだ」
この世の仕組み、真実を理解しないゆえに苦しむ、すなわち我々が苦しむのは「勉強不足」だと。
では「この世の真理」とは何なのか?
釈迦は「縁起」「無常」「無我」「法」ということを伝えています。これらに対する理解がないこと(無明)によって苦しみが起こるのだと。
〇縁起
日本人は「縁起がいい」とか「縁起が悪い」というように何気なく使っていますが、仏教用語としての縁起は「すべてのものは関係性によって成り立っている」ということです。
例えばここにお茶碗があるとします。
このお茶碗があなたの手元に届くまでに、どれだけの「縁」「関係性」があるのかは少し考えてみればわかることです。あなたが買うなりもらうなりしてここに存在しているわけです。ではそのお茶碗を売っているお店があり、金銭のやり取りをする店員がいるわけですが、そもそもお茶碗を工場からお店に運ぶ人がおり、それが例えばトラックで運ばれるのだとしたら車や道路の存在もなければ成り立ちません。お茶碗として日常あなたが使うまでに、どれだけの人の「縁」があったことでしょう。
同じようなことはベストセラー「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)の中にも出てきます。
主人公の中学1年生の「コペル君」が夜中に乳児の時に飲んでいたオーストラリア産の粉ミルクの缶を見ながら、粉ミルクが自分の口に入るまでに多くの人の手が関わっていることに気づいて感動します。牛、牛を世話する人、牛の乳を搾る人から始まり、粉ミルクにする工場の人、工場から港へ運ぶ人、貿易船の操縦士、倉庫の管理人、お店まで運ぶ人、お店の店員・・・。
そしてコペル少年は粉ミルクのほかにも電灯や時計や机など、部屋にあるものがどのようにしてここに存在しているのかを考えます。粉ミルクと同じように大勢の、見も知らぬ人々のおかげでこれらが存在していることに気づき、それをコペル少年は「人間分子の関係 網目の法則」と名付けます。懇意にしている「叔父さん」はそれを経済学の言葉で「生産関係」と呼ぶことを教えますが、物事が「関係性」で成り立っているということは2,500年前に釈迦が「縁起」として我々に伝えていることでした。
〇無常
もっと根本的な話をすればお茶碗はもともと土で、それをだれかが粘土にして形を作って、薪をくべて火をおこし窯で焼いたものです。使っていくうちに欠けたり割ってしまえばゴミとなり、灰となり空気中に漂ったり土に還ったりします。このように永遠に形として続くものはなく、すべてのものは「常」では「無い」=「無常」ということができます。
これは我々の肉体も同じで、いつまでも赤ん坊ではいられず成長し、老い、やがて死んでいきます。
地球誕生から46億年と言われていますが、つまり46億年前にこの場所に地球はなかったわけです。そしてあと何十億年かすると太陽も寿命を迎え大爆発を起こし、それに地球も巻き込まれて跡形もなくなります。人間の肉体や命はおろか、星でさえ「常」では「無い」のです。これは宗教の話ではなく科学の話であり、極めて現実的な、論理的な、合理的な考え方です。これらを説明するためにあの世や輪廻など必要ないことがお分かりいただけるでしょう。
次回、「無我」「法」についてみていきましょう。


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