前回の記事で「縁起」「無常」について語りました。
〇無我
「縁起」と「無常」を理解すれば「絶対的な自我=変わることない絶対的な本質」など無いことに気づきます。
そもそも「無我」にあたるサンスクリット語は「アナートマン」であり、「ア」は否定語です。つまり「アートマン」を否定しているわけですが「アートマン」とは「実体」と訳されます。「実体」とは、それ自身で存在できるもの、すなわち他の力を借りないで存在できるものを表します。そして永遠に変わることのない本性を持っていることです。
つまり、すべてが縁起であり無常であるとするならば、そのようなものは存在しないということです。
例えば「私、しつちよ」という存在は、両親から見れば「子」であり、会社の組織から見れば〇〇という役職であり、お客様から見れば(本職が教育関係なので)「先生」になる。すなわち相手の立場によって変わるものです。また、2024年現在生きている私、東京に住んでいる私、など時間や場所によって説明できるだけであって、確固たる「我」など無いのだ、となります。仏教の「自我」を語るときによく用いられる例ですが、「私」という一点はあるがそれはコンパスの針でいきなり付けた点ではなく、他人軸や時間軸といった直線と直線が交わる「交点」なのだと。つまり、縁によって作られた私であり、その存在は常に変化し死に向かっている無常の存在であるということになります。
これら「縁起」「無常」「無我」という真理に気づかず、永遠に存在する命や物や地位などを求めているから苦しいのだと。
アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの言葉がヒントになりそうです。
「神よ、変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる冷静さと、変えられるものと変えられないものを識別する知恵を与えたまえ」
自らの力で変えられるものと変えられないものを理解せず、様々なことに固執するから苦しいのだと。真理を悟らないことを「無明」と釈迦は言っています。しつちよは無明を「勉強不足」と理解していますが、要するに真理を学習しないから苦しいのだということではないでしょうか。
〇法=ダルマ
釈迦は「縁起」「無常」「無我」を理解することで「法=ダルマ」を理解できるとします。法とは「あるがままの世界」。すなわち「世界と自分はつながっている」という考えです。関係性(縁起)によって存在が成り立っている以上、自分の存在は世界のすべてとつながっています。
例えば私が会社のデスクに座っているとき、そのデスクはビルの床によって支えられ、ビルは日本の神奈川県のとある土地に支えられ、それは大地で日本とつながり、海を通して韓国や中国とつながり、世界とつながり、地球とつながり、宇宙とつながっているわけです。
金子みすゞという童謡詩人の詩の中に「蜂と神さま」というものがあります。
「蜂はお花の中に、
お花はお庭の中に、
お庭は土塀の中に、
土塀は町の中に、
町は日本の中に、
日本は世界の中に、
世界は神さまの中に。
そうして、そうして、神さまは
小ちゃな蜂の中に。」
このように私たちの存在は突き詰めていけば宇宙とつながっていることが分かります。現象として「自分」というものは感知できますが、その存在は縁によって成り立ち、常に変化し、あらゆるものとつながっている。本質的には「私=あなた」であり、「私=宇宙」であると。
あとはこれをどう解釈し、人生の指針とするかです。
その方法論として釈迦は「四諦」「八正道」「慈悲」などを語っています。
次回見ていきましょう。
ここまででお分かりの通り、釈迦の教えは決して仏様のような超自然的な存在が出てくるわけでもなく、地獄や極楽や生まれ変わりを語るものでもなく、非常に論理的で合理的です。
おそらくこのあたりのことを聖徳太子は気づいていたと思いますが、当時の人々に分かりやすく伝える「手段」として鎮護国家といった呪術的要素を取り入れたのでしょう。
そして平安時代後期から鎌倉時代にかけて、より庶民に分かりやすいように地獄や極楽、生まれ変わりといった神話的な話が広まっていったのだと思われます。
今こそ、仏教(というより釈迦の教え)の「論理的・合理的」な側面を学んで、呪術的、神話的側面からの脱却を試みたいと思います。
というのも、のちに新シリーズを作る予定ですが、この仏教の論理的側面と西洋の心理療法の合わせ技が、人生の苦難を切り開くヒントになってくれると考えているからです。
個人的には仏教の論理的側面を理解することで「縁」に感謝し、「無常」を理解することで変えられるものを変える勇気と変えられないものを受け入れる冷静さとその違いを識別できる知恵を持ち、「無我」の境地ゆえに他者を自分のように大事にすることによって心の平安が保たれる。そのうえで西洋の心理療法(論理療法やブリーフセラピー)を行うと効果的ではないかと考えています。
そのためにも、まずは日本人がイメージを持っている仏教の呪術的側面、神話的側面のアレルギーを払しょくしておきたいと考えました。


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