ユダヤ教徒たちは律法を厳格に守ることで救われ、救世主メシアが現れて、神の国という物理的な王国を作り、ユダヤ人の苦難が救われると考えていました。
それに対してイエスは神を愛と捉え、信仰と隣人愛の実践により人々は救われると説きました。信仰とは律法を外面的に行うことではなく、自分の心のあり方に目を向けることだと訴えました。
しかしユダヤ教徒たちから見れば律法をないがしろにしているように受け取られ、異端扱いされて十字架にかけられて殺されてしまいます。
イエスの生涯自体はここで終わるのですが、弟子たちがイエスの生前の言行を広めることによって、またイエスを神格化することによってキリスト教が生まれてきます。
ではイエスの弟子たちが説いたキリスト教というものはどのようなものだったのでしょうか。
イエスは、自分が教祖になって何か新しい宗教を立ち上げようとしていたのかと言われると疑問符が付きます。イエス自身ユダヤ人で、タナハの教えを信仰していたユダヤ教徒に間違いはありませんでした。
ただ、ユダヤ教に新しい解釈を持ち込んだ人ではありました。生前のイエスの教えを分類するならば「ユダヤ教イエス派」という言い方が適切かもしれません。
ところが、弟子たちによってイエスは神格化され、今日のキリスト教の教えが確立されていきます。
十字架にかけられて亡くなったイエスが、3日後に蘇ったといいます。そして弟子たちがこの復活信仰を広め、イエスは神の子であり、メシア救世主であるという考え方が広まっていったのです。これがキリスト教の始まりで、イエスを神であると信じることが重要な教えです。
しかし、キリスト教はイエスの教えだけで成り立っているものではありません。後の人たちが様々な解釈を行い、議論し、整理していって確立したものです。その代表的なのが「原罪」と「三位一体」という考え方です。
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【教養としての宗教学9】イエスの教えからキリスト教へ
【教養としての宗教学10】キリスト教の広まり
〇原罪
人は生まれながらに罪人(つみびと)だという考え方がキリスト教にはあります。この「罪」というのは法律違反というわけではありません。ギリシャ語で「ハマルティア」と言って、「的外れ」という意味です。つまり、神の意思に反した行動、人間が創造主である神からどんどん離れていくこと、神などいないと傲慢になること、これを聖書では罪と呼んでいます。
最初の人間アダムとイブが神との約束を破ったことから、われわれ人間には罪のDNAが埋め込まれているといいます。これをキリスト教の言葉で「原罪」、人間が元から持っている罪と言っています。そんな罪人の私たちが救われる為に、律法を守ることを重視したのがユダヤ教でしたが、キリスト教ではこう考えます。
「自力で何とかすることはできない。」
ではどうすれば救われるのか。次のことを信じることです。
「私たちが生きていく上で犯す罪のすべてをイエスがかぶって、十字架上で購ってくれた、身代わりとなってくれた」
「イエスが十字架にかかったのは、私たち人類の罪を全て背負ってくれた、つまり贖罪(しょくざい)の死であった」と考えます。
すなわちキリスト教徒になるために必要な信仰告白は3つです。
1、イエスは私の罪のために十字架にかかって死んでくださった、贖罪の死であった
2、イエスは死んで墓に葬られた
3、イエスは3日目に蘇った
後にキリスト教の布教に力を注いだパウロは、人が正しいもの、すなわち義であるとされるためには、律法の行いによってではなく、イエスの十字架上の死による贖罪への信仰を通してのみだと主張しました。これを「信仰義認説」といいます。
【教養としての宗教学11】キリスト教の「原罪」について
〇三位一体
キリスト教は元々、唯一神ヤハウェを信仰する一神教のユダヤ教を母体として生まれてきました。ユダヤ教イエス派といって良いほど、イエスはユダヤ教に対する新しい解釈を行った人でした。ところが、イエスの弟子たちはイエスの言動や復活をよりどころとして布教活動を広めていきました。自然とイエスに対する信仰が広まってきます。
やがて神とイエスという2つの対象を信仰することになってしまいました。
さらに聖書には「聖霊」の存在も重要な役割を果たします。
そこで、「三位一体論」が381年のコンスタンティノポリス公会議で確立します。
神という本質は1つですが、その現れ方によって、「神・イエス・聖霊」という3つの存在ペルソナを持っているという考え方です。非常に難しい考え方であり、混乱してしまいますが、神の教えは理解するものではなく、信じるものだとキリスト教では教えています。
【教養としての宗教学12】キリスト教の「三位一体論」について


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