アンケートを書き終えた母親から用紙を受け取ると妙恵は必ず生徒の名前に目を通す。
「〇〇くん、こういう字を書くのね」
これも妙恵のルーティンだ。
「最初の面談では生徒さんの名前に触れてあげた方がいいと思うんです」
講師就任とともに妙恵は面談に臨む心構えを福永に説いた。
「塾長、これ知ってますか?」
そう言って妙恵が福永に見せたのはカルビーの代表的なお菓子だった。
「もちろん、「じゃがりこ」でしょ?」
「そう」
妙恵はふたをはがして1本つまんでから、
「こえ、ぬあんでじゃがりこっていうかしってあふか?」
「口に物を入れながらしゃべるんじゃありません!」
大人びた顔立ち、凛とした姿で周りから絶大な信頼を得ている妙恵も、こういった子どもっぽさはある。
しばらくもしゃもしゃしてから妙恵は改めて聞いた。
「これ、なんで「じゃがりこ」っていうか知ってますか?」
「いや、知らないけど」
「カルビーの研究開発者がね、新しく作ったお菓子を大好きな友人の「りかこ」さんに試食してもらったんですって。そしたらおいしそうに食べてくれたから、それがうれしくてジャガイモと「りかこ」さんをくっつけて「じゃがりこ」ってしたんですって」
「へえ~。・・・へええ~~~!!」
福永は本当に知らなかったので感心して声を上げた。
「あとはね、「食べ出したら「きり」(キリン)がない」っていうコンセプトから「じゃがりこ」のキャラクターはキリンにしたみたいです。でね、キリンにもちゃんと名前があって、サラダ味のキリンは「じゃがお」、チーズ味は「りかこ」、じゃがバター味は「じゃが作」、たらこバター味は「たら子」、なんですって」
無邪気にしゃべり続ける妙恵はどこにでもいそうな18歳の少女であった。
「よく知ってるね」
「カルビーのホームページに書いてありました!」
出典がしっかりしているのが妙恵らしい、と福永は思った。
そして一呼吸おいて、その涼しげな声で言った。
「要するに、お菓子の名前一つにも愛着が込められているわけだから、当然子どもの名前は親の愛情や想いが込められたものになっているはずでしょう?」
照れたような笑みを浮かべ、伏し目がちに言う妙恵の横顔に西陽が当たった。絵のように美しいと思った。
しんみりした雰囲気を感じ取ったのか、妙恵はじゃがりこを一本つまんで明るい声で言った。
「でもまあ、キラキラネームには触れないほうがいいかも、です!」
面談に向かう姿勢がそもそも善意に満ちている、と福永は感じていた。
人は本来良きもの、可能性を秘めているという前提で子どもたちと向き合う。自信を無くしている子どもたちも今はたまたま何かの原因でうまくいっていない。だから自信を取り戻してもらい、十分に活躍できるところまで持っていこうという姿勢が見て取れた。目の前の子どもの成長を心から願い、こちらができることを、誠意をもって提案する。真心だけで話しているような妙恵の面談を横で聞く度に、福永は自身のビジネスマン時代の過ごし方に後ろめたさを感じていた。
自分は、果たしてこのような態度で人と接していただろうか。マーケティングコンサルタントとして、クライアント企業の商品がいかに売れるかのデータ分析や提案を行ってきた。それなりの実績は出せていたはずだ。企業の担当者との関係も良好だった。外資系企業らしく4半期に一度の評価に追われながらもしっかり数字を出してきた自負もある。だが、扱っている商品を心から良いと思えないことは多々あった。人の欲を焚きつけるもの、人の健康や時間を奪う食品や娯楽。本当はこんなものに頼らずに生きていければ幸せになれるのではないかと思いながら、仕事と割り切って行ってきた。年一度の決算賞与で日本人の平均年収の半分程度の金額が振り込まれた通帳を見ながら、どこか自分が不誠実なことをやっているように思えてならなかった。12年間働き、結果も出し、何度も打診されながらもマネジャー職に付かず平社員を通したのも、どこか自分の金の稼ぎ方に疑問を持っていたからなのだろう。当然、社内での競争は激しかった。結果を出すために上司、部下、同僚を蹴落とそうとする人間も多くいたし、福永にマネジャー昇格を打診した上司も、福永が断ったことによって顔を潰されたと思ったのか嫌がらせをするようになったし、そういった社内政治をするのもほとほと疲れてしまった。純粋に世のため人のためになる商品やサービスを提供し、その対価として正当な金銭を得るという当たり前のことが、これほど難しいことなのかと悶々とした日々を過ごしていた。結果、リストラされた後は「30代後半で管理職経験がないので」と市場価値が低い人材として世の中に放り出されてしまった。
教育なら・・・。
子どもたちに知識と思考力を与える仕事なら・・・。
誠実に取り組めるかもしれない、そう思ってこの塾にやってきた。
始めて2カ月あまりだが、やりがいは感じていた。提供している「商品」に後ろめたさがない。子ども(=顧客)が日々成長していく。今のところ福永は社会人になってから一番心穏やかに業務に向かうことができていた。
閑話休題。
集団授業を行っている大学生は理系(薬学部2年)の神泉(しんせん)康子先生、文系(経営学部1年)の駒場孝雄先生であり、妙恵はあくまでも自習サポートと土曜日の特別授業の担当講師だった。
自習室を利用している生徒たちには常に声掛けをして質問対応やモチベーションの向上に努めていた。自習が終わり生徒たちのノートや問題集を確認した妙恵は、学習方法の指示を明確に行っていった。
「計算の途中式は必ず書くんだよ。自分の「頭の使い方」を確認できるから、つまずくポイントや思い込みに気づけるでしょ」
「間違えた問題には印をつけよう。まず5分は考えてみる。そうしてから、自力で考え方が分かって答えも合っていたものには問題番号の横に◎を付けて。考え方が分かったけどケアレスミスした問題には問題番号の横に〇を。もう一度やってできたら〇の中に〇を書いて◎にして。考え方が分からなかった問題で答えを見て理解できたら問題番号の横に△、解答を見ても分からない場合は×。△や×は明日もう一度解いてみて、横に印を書き込もう。2つ×が付いたら先生に聞きな。テスト直前になったら×がいくつもある問題は捨て問と割り切って取り組まなくていいよ。できる問題、できそうな問題を練習して精度とスピードを鍛えよう」
「今日学んだことは必ずその日のうちに復習すること。そして1日後にもう一度、1週間後にももう一度。復習をしないと忘れちゃうからね。1週間前の晩御飯何食べたかなんて覚えてないでしょ?」
「できるようになったと思ったら時間を計ってやってごらん。テストは制限時間があるでしょ」
「一問一答の問題集はマスターしたら必ず答えを見て説明できるか、つまり逆をやってごらん。例えば「江戸幕府8代将軍は誰か?=徳川吉宗」っていうのを覚えたら、答えの「徳川吉宗」を見てどんな人か、何をした人かを言えるようにするの」
「丸付けが大事。間違えに気づかずに丸をしていないか、汚い字でも丸にしていないか、先生方はそれをチェックしてください! 間違えた問題は消しゴムで消して書き直さないで。必ず赤で書いて、あとで解き直しをしてごらん」
「暗記したものを小さな声でぶつぶつ言って確認して。「リップシンク」っていう方法なの。記憶に定着するから」
「たくさん覚えることを恐れないで! 前に覚えたことを忘れちゃうかもなんて、君たちの頭はそんなヤワじゃないから。むしろ知識があればあるほど理解は深まるわ。例えば「黒」と「白」という色を知っていれば「黒と白を混ぜ合わせたような淡い色」と言われて「灰色」という色をイメージできるでしょ」
妙恵の、幼さを残しながらも上品なガラス細工を連想させる透明感のある声が響き渡る「旬学舎」は日を追うごとに生徒数を増やしていった。
<続く>
次回は10月21日配信予定です。
11月からは週2回程度を目や明日に更新していく予定です。ご了承ください。


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